【神戸市指定有形文化財 旧乾家住宅】贅を尽くす家を建てる力に圧倒される

目次

アクセス

交通手段

阪急大阪梅田駅から神戸線で御影駅下車、徒歩10分

JR大阪駅から神戸線で住吉駅下車、徒歩15分

交通費

阪急電車が大阪梅田~御影が280円、JR大阪~住吉が400円

注意点

常時公開していません。

年に2回公開があり、見学申込方法、時期等は神戸市のホームページをご覧ください。私は往復はがきで応募し、今回はコロナ禍の中の2年ぶりの公開で、当選者数を減らし、競争率6倍でした。

周りは住宅街です。近隣のご迷惑のかからぬようマナーは守りましょう。

旧住吉村の大邸宅群について

まずは、乾邸がある場所についてご説明しましょう。

旧住吉村とは現在の神戸市東灘区の一部です。

北側に六甲山があり、東側に住吉川が流れ、南側には太平洋の近代に開発された住宅地を差します。現代では関東の田園調布、関西の六麓荘(芦屋市)が高級住宅地ですが、当時の住吉村は比べものにならない程の富豪と呼ばれる住人達が大邸宅を連ねていました。最初にこの村に邸宅を建てたのが、朝日新聞創立に携わった村山龍平氏。現在はその邸宅が「香雪美術館」となっています。その後住友財閥の住友吉左衛門氏、東洋紡績の阿部房次郎氏、鐘紡の武藤山治氏、武田薬品工業の武田長兵衛氏と20数件の大邸宅群の住吉村は当時において日本一の富豪の村であったでしょう。

残念ながら戦争でほとんどの邸宅はなくなってしまったようです。

現在、日本生命創業者引世助三郎氏の別宅は、日本生命5代目社長、引世現(ひろせげん)氏が占領軍の接取を避けるため、中国人貿易商に売却し、「ガーデンプレイス蘇州園」として、結婚式場、レストランとして姿を残しています。

旧乾家住宅に係る3人

旧乾家住宅を語るには3人の人物を紹介せざるおえません。

乾新治氏

まずは邸宅のオーナーである乾新治氏。

新治氏は明治21年(1886年)生まれでの乾汽船株式会社創業者です。新治氏が生まれた時には既に乾財閥の跡継ぎとして裕福な環境で育てられ、更に本人のハイカラ、モダンな考え方、多趣味で社交性のあるところから多種な人脈を持っていたと言われます。その中の一人が乾家を設計した渡邊節氏でした。

新治氏は名門コースである廣野ゴルフ倶楽部(三木市志染町)の発起人の一人であり、そのクラブハウスを設計したのが渡邊節氏でしたので、これが縁になり、乾邸の設計を依頼したのではないかと言われています。

昭和初期に、車より高いとされたゴルフクラブセットを使うためのゴルフ場を造ろうとする心意気、情熱は乾邸をご覧になれば分かります

残念なことに新治氏は乾邸が完成してから5年後に急逝し、娘婿の乾豊彦氏がわずか33才で乾家、乾家の事業を引き継ぐことになります。

乾豊彦氏

豊彦氏は名古屋で高橋彦次郎の七男として誕生し、父親からの薦めで書道、能楽、茶道などを習得し、歴史や伝統を尊ぶ心を持つ青年に成長しました。新治氏の一人娘との結婚で婿として乾家に入ります。このお婿様が敏腕な方でして、戦争を乗り越え、敗戦後の海運業低迷時期を乗り越えて乾家の事業を守っていきました。

また、廣野ゴルフ倶楽部が戦時中「戦時農場」に徴用され、その上コースを潰して平らにし、滑走路を造るようなことがありました。飛行機が飛ぶことはなく戦争が終わりましたが、コースを農地として開放するか、クラブハウスを外国人学校の用地として貸与するかを決める時に、豊彦氏がゴルフ倶楽部復興に尽力を尽くしたとのことです。昭和32年にクラブハウスが火事で焼失した時もすぐに渡邊節氏に設計を依頼して再建したことは、新治氏から受け継ぎ、また自身の伝統を大切にする倶楽部への愛情と渡邊節氏とのご縁を感じます。

渡邊節氏

さて、渡邊節氏は明治17年(1884年)に軍人の家庭で生まれ、東京帝国大学建築学科を卒業。韓国へ渡り韓国の庁舎設計の職につき、その後帰国して日本の鉄道院の技師として京都駅舎の建設に参加します。その後自身の建築事務所を開所し、特に関西の近代日本の代表的なオフィスビルを作り上げました。現存しているビルはいくつも重要文化財、登録有形文化財となっています。

代表的な作品は商船三井ビル(神戸市)大阪ビルヂング(大阪市)、綿業会館(大阪市)、日本綿花株式会社(横浜市)など。

作風は欧米の様式を活かした王道で、格調高く重厚ではあるが、合理性(経済的に)を踏まえ施主の要望に応える現実的な建築家だったようです。

しかし、乾家については合理性は追及されていなかったように思います。

邸宅へ

いつもはこのように門は閉じられています。今日は特別な公開日でしたので門が開けられました。

門からエントランスへのアプローチです。

エントランスへ。

ここが邸宅のエントランス。昭和初期にして、RC造、地下1階、地上3階です。地下にはボイラーがあり、お湯が邸宅を巡りセントラルヒーティングになっていたようです。既にこの時点で壁の石、天井の石、入り口周りのレリーフ、玄関のアイアンとセンスの良さがわかります私、澤村興奮状態です。

さて、この玄関を開けますと右手に内部へと向かうもう一つの扉があり、

美しいガラスの扉で迎えてくれました。

床のトルコのデザインのような素材は既に材料がなく、修理不可能になっているものです。注意深く入らせていただきます。

まずは客間へ

こちらは映画やドラマでロケ地として使用されることがあります。

ため息が出るほど素敵です

天井です。この細部にこだわる感じがすごいのです。

次に食堂です。

スッキリしていますけど、窓と対面している面が次の写真です。

壁紙が素敵です。鏡を入れることでお部屋が広く感じます。鏡の周りのアイアンもいいですね。両脇の扉は鏡の後ろに配膳室があり、最後の盛り付けをして、食堂に運んだようです。

食堂を過ぎると和室がありました。外国人のゲストが多かったため、和室を用意しておもてなしをされていたそうです。

2階、3階へとつなぐ階段。この階段の手摺はマホガニーで作られていて、とても丈夫だとのことです。彫りが綺麗で、美術品に近いです。

手摺の曲線がこんなに美しいと思ったのは初めてです。

次に3階のサンルームです。こちらでダンスパーティをしていたことがあるようです。

天井の照明が21世紀ではありませんか。こんな照明が昭和初期にあることに驚きを隠せません。

遠くに海が見えます。

西側の壁がこちらです。ガラスのデザインが波のようです。

お庭は洋風と和風があります。

まずはシャンデリアが綺麗な客間からテラスに続く洋式庭園。

南側なので、陽光が燦々でした。芝生が植えてあり、広々としています。

西へ進むと和式庭園が広がります。

石を並べ、庭に水辺を造っています。

こんなに大きな石を運び、近くの住吉川から水を引く(現在は水道水)という難しいことをやってのける凄さ。水の流れが心を穏やかにさせます。和式庭園は洋式庭園より広くて、散策すると色々な見え方があります。

大切に残したい文化財

この住宅は豊彦氏の死後相続税として国に物納されましたが、神戸市が買取りました。運悪く阪神大震災で現乾邸(洋館)と続きの和館は全壊し、洋館は残りましたが、いつ解体されてもおかしくない状態の中、NPO法人が根気よく保存活動を行い2009年に指定文化財に指定されました。そこで、建物を壊すことが出来ない状態での入札をしたところ、場所が住宅地であるために商業活動が出来ないという点でか決まらず(正直に申して、この時に売却されなくて良かったです)、神戸市土地開発公社が購入したということです。このような価値のある建物が残されていることは素晴らしいことです。

86年以上前に建てられた邸宅であるが故、修理のパーツが手に入らないことが既に起きています。今後保存していくのも大変なご苦労があるかと思いますが、いつまでも大切にしたい文化財です。

実施日:2021年11月7日

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この記事を書いた人

関西在住。おいしいものを食べることと、旅に出かけることは空気を吸うくらい自然なことです。乗り物大好き、駅、港、空港大好き。
最近はクロスバイクを購入し、エンジンのない乗り物にて、近所で宝探しの旅も楽しんでいます。

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